東京オフィス市場における賃料上昇と法的紛争の実務対応
概要
本稿では、コロナ禍後の需要回復に伴う東京のオフィス市場における賃料上昇の動向と、借地借家法第32条に基づく賃料増額請求(以下「賃料増額請求」といいます。)の法的枠組み、継続賃料の評価手法、ならびに関連する裁判手続の実務について解説します。市場環境の変化を踏まえ、賃貸人・テナント双方に求められる準備や留意点を、経済分析に基づく定量的評価の重要性と併せて整理します。
背景:需要回復と賃料上昇の局面
コロナ禍の収束とともに、企業の都心回帰が進み、オフィス需要が回復しています。主要オフィスビルの空室率は5%を下回る水準まで低下したといわれ、新築物件の賃料は建築費高騰等の影響で上昇しています。既存物件においても、物価の上昇等を根拠に賃料の見直しが進む局面にあります。こうした環境下で、現行賃料と近隣相場との乖離が拡大した場合には、賃貸人にとってはテナントに対する賃料増額請求の行使が選択肢となる一方、テナントにとっては賃料増額請求を受けるリスクが高まります。いずれの立場においても、データに基づく複雑な交渉および裁判手続の可能性を見据えた準備が不可欠です。
賃料増額請求の趣旨・要件
賃料増額請求は、日本の賃貸借法制に特有の制度です。いわゆる普通借家においては借家人が保護されており、契約満了時に借家人が更新を希望する場合、賃貸人は実質的にこれを拒むことが困難です。その結果、借家人の意向次第で賃貸借が長期に継続し得ることから、契約後の経済状況の変化を賃料条件に反映する仕組みとして賃料増額請求が認められています。賃料増額請求は契約期間中でも行使でき、借家人への通知により直ちに効力が生じます。なお、テナントからの賃料減額請求も可能です。
賃料増額請求が認められるためには、直近に当事者が賃料条件を合意した時点(以下「直近合意時」といいます。)以降の事情変更により現行賃料が不相当となっていることが必要です。典型的には、経年により過去に合意した賃料と最新の賃料相場との間に乖離が生じている場合が該当します。他方で、当事者が意図的に相場以下の賃料を設定していた場合など、入居時の人的・利害関係や過去の合意経緯によっては、相場上昇があっても賃料増額請求が認められない、あるいは増額幅が限定される可能性があります。
継続賃料の概念と評価枠組み
賃料増額請求の行使により、賃料は相当な水準、すなわち「相当賃料」または「継続賃料」に調整されます。重要な点として、継続賃料はテナント入居時に当事者間で合意される「新規賃料」とは別概念であり、両者が一致する必要はありません。実務上、多くの場合、継続賃料は現行賃料と、賃料増額請求の行使時点(以下「価格時点」といいます。)における新規賃料の間で決定されます。
継続賃料の算定は、国土交通省が公表・改定する不動産鑑定評価基準に基づき、不動産鑑定士が実施します。上記基準は裁判所を法的に拘束するものではありませんが、実務上、裁判所は上記基準を尊重して判断を下す傾向にあります。評価は、以下の四手法による各試算賃料を適切にウェイト付けして総合評価する方法により行われます。
- 差額配分法
- スライド法
- 利回り法
- 賃貸事例比較法
上記の方法の中でも、差額配分法とスライド法は実務上の重要性が高いことから、以下説明致します。
差額配分法
差額配分法は、現行賃料と価格時点の新規賃料との差額を、賃貸人帰属分とテナント帰属分に区分し、賃貸人帰属分に相当する増額を反映して継続賃料を導く手法です。例えば、現行賃料が50、新規賃料が90の場合、差額40のうち25を賃貸人、15をテナントの帰属分とすれば、継続賃料は75(=50+25)となります。
新規賃料は、価格時点における同種建物の成約事例を参照する方法、または建物の原価を積算して相当利回りを乗じる方法により算定されます。差額の配分割合は、①直近合意時以降の経済的条件の変化(例:賃料相場の上昇)と、②賃貸借契約内容・賃料変更の経緯など直近合意時までの諸事情を分析した上で決定されます。
スライド法
スライド法は、純賃料(賃料から減価償却費、維持管理費、修繕費、公租公課、損害保険料等を控除した額)を基礎として、各種経済指数等から得られる変動率を用いて試算賃料を導く手法です。指標としては、(a)国内総生産、国内企業物価指数、企業向けサービス価格指数といったマクロ指数、(b)地価公示・路線価・建築工事費デフレーターといった不動産価格関連指数、さらには(c)調査会社が公表する賃料指数などが利用されます。例えば、直近合意時の指数が100、価格時点の指数が120であれば、変動率は20%となります。
手続面:調停前置と鑑定の位置付け
賃料増額請求に関する紛争の裁判手続には二つの特徴があります。第一に、賃貸人は直ちに訴訟提起できず、まず裁判所に調停を申立てる必要があり、調停で賃料額に関する合意が成立しない場合に訴訟に移行します。第二に、賃料増額請求訴訟では、通常、裁判所が選任する鑑定人により継続賃料の鑑定評価が行われます。鑑定は裁判官を拘束しませんが、裁判官は鑑定書の定量的情報を参照し、また、鑑定評価が相当と考える場合にはこれに依拠することから、結論に重要な影響を及ぼし得ます。
実務上の示唆
- 市場賃料の上昇により現行賃料との乖離が拡大する局面では、賃貸人にとって賃料増額請求の行使時機となり得ます。他方、テナントにとっては賃料増額請求に対する対応方針の早期検討が肝要です。
- 賃料増額請求の成否や増額幅は、継続賃料の専門的・定量的評価に左右されます。差額配分法・スライド法等の手法に基づく経済分析と、契約経緯・当事者間の関係性の適切な立証が、交渉・調停・訴訟のいずれの段階でも重要となります。
- 裁判所関与が見込まれる案件では、不動産鑑定評価基準に沿った客観的資料の整備と、鑑定評価の前提事実(新規賃料、配分割合、指数選定等)に関する説得的な主張立証が、望ましい解決につながります。
ジョーンズ・デイの出版物は、特定の事実関係又は状況に関して法的助言を提供するものではありません。本書に記載された内容は、一般的な情報の提供のみを目的とするものであり、ジョーンズ・デイの事前の書面による承諾を得た場合を除き、他の出版物又は法的手続きにおいて引用し又は参照することはできません。出版物の転載許可は、www.jonesday.comの“Contact Us”(お問い合わせ)フォームをご利用ください。本書の配信、および受領により弁護士と依頼人の関係が成立するものではありません。本書に記載の見解は執筆担当者の個人的見解であり、当事務所の見解を反映したものではありません。